pazuのノスタルジックな道具

愛着の道具と遊びの回顧録

精霊馬

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昨日はお盆の入りでお寺に参ってきましたが今日は僧侶が来宅でお経を唱えていただきました。拙宅は曹洞宗で今年は母の新盆で18日にお寺で盂蘭盆法要があります。今は亡き先輩のお寺なので(今は息子が住職ですが)ガラにもなく行事には欠かさずお参りするようにしています。行事といっても春秋の彼岸法要と盂蘭盆法要ぐらいですけどね。なにやら仏教上ではお彼岸が重要のように感じられます。なぜかって僧侶の数が違いますもの。お彼岸だと13~15人くらいいらっしゃいますがお盆は半分です。人数で測っちゃ叱られそうですが。

人は死後の世界から逃げて暮らしています。あの世とやらが在るのか無いのかという命題は正直めんどうくさくて考えたくありません。丹波哲郎ほどの人物が在るというのだから在るのでしょうけど。まるっきり無というのもボクとしては困るわけです。十代後半には考え悩みましたが四十数年経って死が近くなると諦観というか悩んだところでどうにもならないさだめ川、なるようになるんだろって。観念論ではなく物理学の手法を用いるのが正解を得る道だと思うのですがそんな頭脳でもないし。

その若き頃に湯川秀樹の『目に見えないもの』という本を読んだことがあります。その中に次の一説がありました。

『真実』
現実は痛切である。あらゆる甘さが排斥される。現実は予想できぬ豹変をする。あらゆる平衡は早晩打破せられる。現実は複雑である。あらゆる早合点は禁物である。
それにもかかわらず現実はその根底において、常に簡単な法則に従って動いているのである。達人のみがそれを洞察する。
それにもかかわらず現実はその根底において、常に調和している。詩人のみがこれを発見する。
達人は少ない。詩人も少ない。われわれ凡人はどうしても現実にとらわれ過ぎる傾向がある。そして現実のように豹変し、現実にように複雑になり、現実のように不安になる。そして現実の背後に、より広大な真実の世界が横たわっていることに気づかないのである。
現実のほかにどこに真実があるのかと問うことなかれ。真実はやがて現実となるのである。

宗教家でもない量子物理学者がこういうこと言うんですから戦慄しましたね。空の概念?諸法実相?ヘーゲル言うところの“本質は現象する”のです。ボクがいかにカッコつけてもバカは現象します。
 
今朝は仏壇の前に精霊馬を作って供えました。オフクロもオヤジも馬に乗って早よ来いや!帰りは牛に乗ってゆっくりお帰り!ということです。なにやら仏教というより土俗信仰のニオイがしますけど。